もの・こと・じょう・ほう

見据えた海は大海原。耳を澄ませば人の声。振り向き様に富士の山。影の先に一輪の花。

twitterでたまにつぶやいて、また似たようなことをつぶやてしまうので、ここに書いてしまおう。 よく、たとえ話で歴史事象を引っ張ってくることがある。たとえ話だからわかりやすさを示すものとして使われるのはよくわかるが、 そこにも程度というものがある。つまり、言いたい事柄とたとえ話の歴史事象のシンクロの度合が大きいほどその例えは優秀で、逆はただの愚の露出でしかないということだ。 多くの人が歴史事象を使うとき、それは高校レベルの教科書歴史を使ったものである。日本は少なくとも高校を卒業している方が多いので、引用としては十分であろう。 そしてそもそもの言いたい事柄が冗談だったり他愛もない話ならいい。しかし、マジメな議論、主義主張のぶつかり合い、まして学者レベルでのそれとでは話しての思考やセンスの問題を感じざるをえない。 ここで少し教科書歴史の話をするが、現代教科書と歴史学のズレは約20年以上はある。典型が「鎖国」である。この議論は1970年代から始まり、今や学問上の通説にもなっているところまで「鎖国」ということばの誤りが定着している。しかし、教科書では鎖国が言われ続けている。私が高校の頃の教科書には注で「四つの口」や鍵かっこ付きの「鎖国」で表記があるが、高校を卒業して4年、未だ定着はしていないだろう。そもそも「鎖国」という言葉自体が西洋の視点でしか見られていない。清や朝鮮、琉球アイヌとの貿易は存在し、それを幕府が独占していただけの話である。一歩譲って鎖国というならばそれは対外国(この外国という言葉自体使いづらいが)における藩との関係なら言えるかもしれない。一歩どこれではない気がするが、その違いを感じる。 さて、この「鎖国」から約250年後、今度は「開国」となる。最近、某協定が新聞では「開国」と言われている。さて、これを書く記者はそこに潜在的に鎖国を想起しているはずである。その記者、上に書いた違いを認識しているのだろうか。 例えの程度が弱まると、叫ぶ内容も弱くなってしまう。それを考えてほしい。