もの・こと・じょう・ほう

見据えた海は大海原。耳を澄ませば人の声。振り向き様に富士の山。影の先に一輪の花。

多様性と排除

周りには様々な枠組みというものがある。

ルールの観点からみると、マナー、社会規範、規則、法律、条約。

空間の観点からみると、部屋、丁目番地、市区町村、都道府県、国

目に見える枠組みから目には見えない概念による枠組みがある。

 

さて、日本では「多様性」はまま尊重され、良いことだとされている。

個性を伸ばす。そこにメリットを読み取っている。

これは個人に限らず、国家、民族にも同等のことが言われている。

だが、昨今のイス○ム国とされる集団は多くの国家からは敵とみなし、また、その集団も国家を敵にしている。

では、このイス○国の存在は多様性において尊重されないのだろうか。

無条件の多様性尊重に立つと、その集団も存在を尊重され、存在が許される。

だが、実際問題、そうなっていない。

危険だ、非人道的だというところから排除を要請されている。

 

 

多様性の中に排除が内在している。

ここで、最初の枠組みの話に戻ると、制限速度オーバーで道路交通法違反により刑事罰等を受けた者がいるとします。

この者はルールという枠組みからもれた者である。このルールという枠にはまらなければ、その者は排除されるのだ。枠に収まるところでは、どの速度であろうと許される。(ここでは、渋滞などは置いておく)

となると、ルールという枠組み、いや、「枠組み」というものが多様性を規定し、そして多様性に内在する排除を規定しているのである。

この枠組みはとある国家では国民が立法府の者を民主的に選び出し、決めている(こよになっている)。とある国家は主席以下独裁・半独裁的に決定している。

この枠組みが多様性を拡張または縮小させているということになると、それを決めることのできる人々(国民、三権etc)と歴史的に培われた文化・社会そしてそこに影響を及ぼしてきた経済・政治が一体として多様性に排除を内在することを了解した上でそれらを取り決めていくことになり、常にその新しさを求めていく必要がある。

そのためにも、歴史的に何をしてきたのかも同時に振り返って確認し、守るものは守り、変えるものは変えていかないといけないと思う。

そう思うと、今している仕事、今しているプライベートなことからどこか刹那的に消費されてしまうものではないことをぼんやりとながら呼び起こしてくるのではないだろうか。