もの・こと・じょう・ほう

見据えた海は大海原。耳を澄ませば人の声。振り向き様に富士の山。影の先に一輪の花。

電柱の足元には花が咲くのか、ゴミがあるのか

仕事は肉体的・精神的にハードであって、予測可能回避不可能なものであるからして、諦念であって悟るものだと思う。
だが、そこにも性にあうあわないがたぶんにあって、7、8月の私はまだ性にあっている仕事をしていたと今振り返ると思う。
しかしながら、9月になって年内までやる仕事は性にあってないと1か月してみて思うところがある。
事務もそうだし、上司とのコミュニケーション上にもあわない部分がある。
ここで年内までやっていくのは正直、神経すり減らしながらの毎日な感がある。
何かが私から抜け出ていく日々を思ってしまう。


疎外感といえばたいそうに聞こえるが、何か表すとすると、そんなニュアンスのある感覚だろうか。
これを月曜日から金曜日までするのかと思う月曜日の朝はとても憂鬱である。

そんなことを平日、帰ってきて6畳の独房で思うだけで、心が心でなくなりそうで、いつ繋ぎ止める心が折れてしまうか、体が壊れてしまうかということを寝る前とかによぎってしまう。


年内、とりあえず年内さえ終われば。それが帰りのバスの中でiPodをポケットに忍ばせて耳にアニソンを流し込みながらよぎらせる言葉になっている。



こんな弱音弱腰弱心であっても、最低限の生活には困らず、貯金もぼちぼちさせてもらっているだけの給与をもらっているのだから、職場にそのヘドをぶちまけるなんてできないから、こんな風なことを書いてでもして、心と体の嘔吐をしなければいけないのが、それはそれで申し訳なく思い、そしてその情けなさに私の人間的な弱さがみえてしまう。