もの・こと・じょう・ほう

見据えた海は大海原。耳を澄ませば人の声。振り向き様に富士の山。影の先に一輪の花。

思うこと(ずっと先の未来)

今の日本なり世界なりがグローバリゼーションと高齢化と貧困格差うんぬんとした世の中なのはメディアで知るところである。
では、これから先、それがどうなるのだろうか?


【ここから完全な妄想】



思うに、一度できた差は簡単には埋まらない。それどころかその程度が二極化していく。
そして、その二極化がついには分離してしまうというのがずっと先の未来にあるのではないかと思う。
つまり、「新しい身分制社会」が到来するのではないかと。
とある(国家や都市を問わない)先進地域に上流階級が住みつき、その外側に中流階級、その外に下流階級。生活インフラは多くが機械化され、一部が人的処理をするが、それは下流民が行い、上流民はオフィスorホームワークを中心とした、いわゆるホワイトカラーがその多くである。
中流階級も多くはホワイトカラーであるが、代襲性が強い上流階級には抗えず、特段豊かな生活を送ることはできない。
下流民は特殊職業に従事する者と完全な貧困者で構成され、特殊職業者は身分として差別的扱いを上流・中流階級から受けるが、その職業民の中での上位層は裕福な生活を享受し、上流民の中の上流民と対等な席で対話ができるという、上中下というスティグマだけでははかることのできない身分制社会がそこにはあるのではないか。
こうした階級間の住居には大きく隔てる壁、イメージとしては20世紀少年のトモダチが再現した古き下町と外を隔てる壁のようなものによって隔てられており、簡単に出入りすることができない。
これが中世までの身分制社会なら日本やフランスといった限られた大地で実現されていた(※便宜的に日本やフランスといったが、国家概念が中世にはないので、現在の国境線で区切られた日本やフランスではない)が、新しい身分制社会ではその範囲が地球全体になり、東京やニューヨーク、上海、ロンドン、ドバイといった都市に上流民が移り住み、そのベッドタウンや現在の国家内での中規模都市に中流民が住み、いわゆる限界集落や農地、沿岸地域等に下流民が住む、そんな世界ができあがるのではないかと思う。
これは居住や職業選択などの基本的人権が無視されている世界である。そんな世界が実現するのだろうか?
実現するのではないだろうか。もはや現在の貧富格差が極みに達するころには、もはや人権よりも生きることの方が選択され、権利を捨ててでも生きる選択肢を選ぶという状況になる時がきたしまうかもしれないと思う。
こうした社会が実現する時にはもはや郷土の歴史というものは忘却されていき、権利も放棄し、ただ食べる・寝る・住むが保証された要件がすべてをなす、より人間の欲求の限界に挑む社会ができてくるのではないかと思ってしまう。
そして、自分の子孫がどこにいくかということを考えなければならない時が来るかもしれない。
ただ、上流だからいい、下流だからダメだ、豊かさは個人で違うという多様性が無責任に聞こえてくる、そんな多様性よりもまず己が生きる、そんな社会。
考えるだけで光と闇が見えてしまう。でも、今の社会も光と闇がみえるだろう。どちらがいいかなんて選べない。どちらにしても変わらない、変えてはならない、譲れない、渡せない何かを基準に自分で考えなければならないと、ふと思った。