もの・こと・じょう・ほう

見据えた海は大海原。耳を澄ませば人の声。振り向き様に富士の山。影の先に一輪の花。

今だからこそ歴史・・・そんな「こそ」はいらない。

震災以降、古文書記録から過去の災害について考え、新しい災害想定の参考にしようという動きがある。
古文書で遡ることのできる歴史は限られているが、それでもなおわかる範囲でとらえなおそうという動きは歓迎すべき動きであると思う。
一方で阪神淡路大震災以降、大規模災害での議事録が未作成・作成不十分になっているという事実がここにきて判明した。
過去のエントリで議事録の不十分は反逆だと書き、後世からの現在への評価を不十分なものにすると述べた。
歴史学で今回の震災以後、何を考えなければならないかとなると、特にしなければならないことはない。
政治史、経済史、社会史、思想史、文化史、民衆史などなど多くの研究者が日夜研究に励んでおり、引き続き研究に専念していくことが望ましいと思う。
その時、その時代に感じた様々な背景から感じるところを問題意識として歴史を見直すことはいつの時代もなされてきた。いわゆる学術レベルでもブームがその時代を率いていく。この動きに乗る研究者、乗らない研究者がおり、そこから乗った研究者は時代要請に応え、乗らない研究者はその各問題意識を突き詰めることに邁進すべきである。


こう書くと、歴史学は受け身学問のように思われる。
だが、受け身であることに何の引け目を負うことはない。
柔道で受け身が基本であるように、歴史も受け身がなって技(新たな歴史視点)を繰り出せるのである。
時代の要請にきちんとした受け身をとり、歴史事実に技かけていく。


研究者がその受け身をきちんととれるだけの素養と技をかける技術・体力に相当する深い知識と思考、そしてその人口が求められていくことがこの時代限らず求められることだと思う。