もの・こと・じょう・ほう

見据えた海は大海原。耳を澄ませば人の声。振り向き様に富士の山。影の先に一輪の花。

後世への反逆

震災以後の官邸での「原発対策本部」の議事録が作成されていなかったというニュース。
話にならない。


危機管理の一実例として後世に残され、検証されるべき第一級に相当する歴史史料になるものがないという。
おそらく、官邸内にいた官僚は当初議事録の作成をしようとしただろう。それが当然だからである。
ここにお役所の文書主義の正しい側面がある。
しかし、それがないということは何らかの作為が官邸で生じたとしか思えない。
残念ながら断定はできないが、閣僚がその議事録作成に前向きでなかったとされてもしょうがない。
危機において議事録の作成どころではなかったという言い訳は許されない。
この議事録未作成は歴史に対する犯罪である。
せっかく2010年に公文書管理法が制定され、日本の遅れた文書行政が進み始めた矢先にこうした文書作成という根本的な所で欠陥が生じていいてはいくら政権が原発処理に功績をならべてもそれがかすんでしまう。
これが10年、20年、30年、100年後、時代を過ぎてからこの「福島原子力発電所事故」がどのようなものであったのかを検証する時に、こうした欠陥によって(正しく)歴史認識がなされないという日本国の財産が失われてしまったのだ。
今、山積する課題に立ち向かわなければならないことはとても気力・知力・思考力・体力がいることだと思う。これは敬意を払わなければならない。
だが、その課題をクリアしていったあと、その結果が正しく評価されず、歴史に残っていくことを政権担当者は黙って受け入れることができるだろうか。
個人にまでそれを落とし込めると、あなたが行ったその企画、内部でのメモや会議議事録なしで、ちまたの報道や口コミだけで何十年後も評価が決まり、もしそれが残念な結果になった場合、それを残念な結果のまま企画したチームはその残念な評価だけを許容できるだろうか?
チームがやってきた努力、試行錯誤を含めた判断をされるべきだろう。その証拠となるメモや議事録がない。そんな不手際あってたまるだろうか。
元に戻り、それが国家レベル、しかも数少ない危機管理という事例の記録がない。そんなふざけた話があっていいのだろうか?