もの・こと・じょう・ほう

見据えた海は大海原。耳を澄ませば人の声。振り向き様に富士の山。影の先に一輪の花。

単一性の不自由

前回に続き、なにげなく思い浮かぶ事柄を描きたいと思います。
今回のテーマは【単一性の不自由】

前回のテーマの対極にあるものだと個人的に思っている言葉です。
まぁ、いうなれば独裁とかワンマンをイメージ。つまりはそれを支配し運営するトップ層が客観的に有能で、その下で支配される(雇われるとか教えを受けるとかそういう類)者がトップ層の手腕を良しと評価されている間はその機能として単一性は非常に効率的かつ有効に物事を進めることができます。一代でのし上がった経営者などはそうした例でしょう。
しかし、そうしたトップ層が経年劣化することはよくあることです。そうすると、トップダウンで動かしてきたことがうまく作動しにくくなります。またその下に集まる人たちとも疎通がうまくはこべなくなり、全体としての機能が麻痺を起します。と同時に経年劣化の悪い点は抜本的な改革を拒む層が機能麻痺を認識されている時点ですでにできあがっており、これらを排除ないし懐柔しなくてはますます全体の機能が低下し、最悪の場合はその機構自体が消滅するということが起こるのです。あまり歴史を例に取り上げたくないのですが、多くの政権や王朝はこれにより衰退していきます。その最後の引き金を引く要素はイノベーションや革命など様々あります。これに対して既得層は様々な手段で機構の保守に走ります。その手段は軍事的であったり情報操作であったりします。その結果起こる惨劇は数多くの死者や貧困をもたらしてきました。
国家機構に限らず、転換の起こるものはあります。科学の世界でもパラダイムシフトの発生はそうした文脈でとらえることも可能かもしれません。


単一性のよりどころは基準があるということです。基準に収まれば寛容で、基準を越したものには不寛容になります。前回の多様性はその基準の枠組みを細分化したり突破したりするため、単一性の世界からすれば忌み嫌われることがあるだろうと思われます。
基準の枠にあればその責任と成果は自らのものとなりますが、その外の世界は成果については横取りしようと虎視眈々と注意をめぐらすものの、責任に関しては無視をきめこみます。しかし、責任が枠組みの外で発生することはほとんどありません。それはそもそもの行為範囲が単一であるにもかかわらずその外があることは基本的に無視されているからです。例えば、地球温暖化は地球全体でそれに向けた対処と責任を取らなければなりません。


次回は多様性と単一性がクロスする部分について考えたいと思います。