もの・こと・じょう・ほう

見据えた海は大海原。耳を澄ませば人の声。振り向き様に富士の山。影の先に一輪の花。

多様性の無責任

普段なんとなく思っている日常についてとりあえず書いてみる。
今回のテーマ【多様性の無責任】


近年、生物多様性とか研究分野の多様化とか、「多様」ということばがなんとなくはびこっている、そんな感じがします。
多様な価値を認めるということ、それは大いにいいことだと思います。一つの枠に括れない個々のもっているものを認めるというものであり、いうなれば個性とでもいえるのでしょう。個性的な人間というのもかつての高度成長期には語られてこなかったキーワードだと思います。
思想分野においても「大きな物語」の終焉以降、様々な分野からの思考方法が取り上げられるようになり、多様性が今なお拡大の一途にあります。

しかし、自分としては拡大の一途にある「多様性」というものを少し考え直しています。
多様な価値を認めることは一方でそこにセクショナリズムを生む可能性を秘めていること、またその価値観を理由とした秩序への反抗。またある不都合に対する責任のたらいまわし。私はそこに多様性の可能性と自滅の二面性があると思っています。
個別化された価値にこだわることで一定の深化が行われること、また既存秩序への反抗による新たな秩序創出。これに関してはその多様性の可能性を信じる先にある未来だと思っています。生まれたての新たな価値観を潰さずに育て、パラダイムの転換を起こすことに寄与するものを大事にしていくことは大切です。そうした力でないと閉塞感を破れないことは近年叫ばれ続けてきました。そしてこの先、今現在若者と呼ばれる人々が既得権者となった後もこれから生まれてくる若者に求められ、発展への活力となる源なのです。


一方、その反抗がその時々では秩序を乱すものとして受け止められることは確実です。それは小さなことから大きなことまで規模は様々です。事によっては法律で罰せられることもありますし、発展を阻害することもあるかもしれません。例としては公害対策と経済発展が両立するのかが高度成長期にはありました。自動車業界ではそこから省エネ・エコという新たな付加価値を創出しましたが、そうした問題が上がった当初は問題がチャンスとは見受けられなかったでしょうし、法律制定には抵抗したと思います。それだけ、問題の発生とそこに見出された価値観(ここでは経済発展と個人の健康)という対立は避けられないのです。
ただし、省エネ・エコという付加価値のことを述べたように、こうした点での問題は多様性の可能性に収束する短期的問題で、長期的に見れば発展の端緒となるので、その時々の世論判断や科学界・哲学界の意見などを材料に問題とみなして叩き潰すのか、発展の端緒とみなしてアウフヘーベンするのかが分岐点となります。


しかし、私は多様性の抱える問題は短期的な問題だけではないと考えています。こちらの方が長期的かつ重大な問題であると私自信は思っています。それは、その生み出された価値観は既存のある一定の枠から分岐した価値観であることを前提とすることで成立する問題なのですが、それまである一定の枠で受け止めてきたたる価値観に対する批判を個別化された価値観は自らの問題であるとは十分に受容せず、部分をみて他を他に転嫁する、いわば問題のたらいまわし、責任のたらいまわしが発生するのではないかという危惧です。簡単にいえば部分をみて全体をみないセクショナリズムとでも言えるでしょう。逆に個別間での問題の奪い合いで論点がずれてしまうこともあるかもしれません。私としてはそうした具体な例がみえてきてないのでそれを説明しきれないのですが、雰囲気としては近隣の交流がなくなることで起こるコミュニティの崩壊がそれに近い雰囲気をもったものだと思っています。個別すぎて全体のつながりが弱まり、問題としては全体のつながり・関係を踏まえるべきものが、個別化されすぎてつながりがもてない、つながりがあることさえ気づかない。そうした結果問題が根本から解決されずにずるずると悪化してしまう。そして気づいた時には手遅れ、その責任をまた個別なところで転嫁しあう。悪く言えば幼稚な部分が見えてくるかもしれないのです。


私はだからといってこれとは対極的な位置にある一元的なものにも良し悪しがあると思っていますが、多様性の100%の肯定を日々の中で社会全体が認めている気がしており、そこに疑問をもつのです。