もの・こと・じょう・ほう

見据えた海は大海原。耳を澄ませば人の声。振り向き様に富士の山。影の先に一輪の花。

逃げるな、危険。括目せよ、責任。

最近、生物多様性条約締約国会議(COP10)が日本で行われてました。
生物を守ろうとか、生物の機能を医療等に役立て、それを求める先進国と生物が多く生息する途上国との間で妥協が見いだせないといった感じで会議が行われてました。


そもそも、多様性ってなんなんでしょうか。
人の性格でいうと「個性」にあたるような意味あいだったり、「能力」だったり、良く言えばさまざまなもの・こととかがそこにあるといった感じ、悪く言えばバラバラとでも言いましょうか。
ケータイではこれをガラパゴス化といったりしてますね。
まぁ、自由な下で生まれる様々なもの・こと・ひとといったものですね。
自由といったのは、枠を超えることでアイデアが生まれ、それがオリジナリティーだったり、個性っだりするものを生み出す土壌にあたるようなものでしょう。
国家のレベルでいうと、それぞれ国々があって、異なる社会・文化があるということでしょうか。
小学校とかだと、「みんな違ってみんないい」とか言われた経験もなきにしもあらずといったところです。


さて、一方で、こうした方向とは反対に向かうものもあります。
ありました、で言えば、帝国主義下での一元的支配だとか、文化の押し付けといったもの。現在でいえば、ユーロといった枠組みは各国家を一つにまとめあげており、通貨はユーロで統一されたりしています。言語でいえば、国際標準語として英語があったり、と多様性とは反対の、単一性が一方では存在しています。


どちらが善か悪かとかは一概には言えません。ただ、多様性の方は負の側面があまり聞かれません。単一性は戦前の帝国主義的支配などといったように、ある基準に周りを押し付けるといった意味合いが現在でも残っているし、多様性のところで言った「枠」もその一例かもしれません。現在ではユーロ圏だとかグローバリズムだとか、道州制もそうした一つなのかもしれませんが、大きなまとまりとしていることの利点が台頭しつつあります。


さて、私は、多様性と単一性の負についてみてみたいと思います。
単一性の方は先にも上げたように、ある基準・枠組みに入るとそこにある規則やらに拘束されます。これは国際関係だと、二酸化炭素削減の問題や核拡散防止条約、冒頭にあげた生物多様性条約、ユーロ、TPPなどがあり、学問とかだと、経済学での古典派vsケインジアンだったり、歴史学マルクス主義歴史学だったり、流行が優位を占めた時に生じる大きな枠があります。社会とかだと大衆という言葉やKYなど、群れる習性と排撃の習性が混在するものだったりします。
こうした単一性は常に枠の内側と外側を意識しなければなりません。もし枠から外れれば、忌み嫌われてしまったりし、ぼっちを生み出すことにもなります。
また、枠が大きく二つあったら流行に乗った方が優位に立ち、もう一方は劣勢にまわったり(古典派とケインジアンはそれにあたる)します。
こういった枠で自分と他者を区別する場合、その過ちが生じた時、責任はすべてその枠全体に及びます。ユーロ通貨の危機の時にはユーロの存在すら非難されたり、国と国民の関係だと、国という枠に収まる国民は経済や社会、外交の不満を政府や行政にぶつけ、その責任を国に背負わせます。
単一性はその枠がだいたいが大きい単位で構成されるため、それを運営する運営者(政治家や理論の提唱者など)が運営する代わりに責任を負うため、その責任はすべてそこに集中します。そして、その責任によって生じた損害はその枠全体で引き受けなければならないことが多々あります。下手をすれば、その枠自体がなくなることもあります。特にイデオロギーが働くものは駆逐された場合にそれが起こったりします(マルクス主義批判とかソ連解体など)。
なので、そこにいる構成員である我々も少なからず損を被ることがあります。


一方、多様性はどうか。
多様性はそうした大きな枠組みが細分化されて、小さい枠組みがいくつもあります。多くは依然の大きな枠組みの中から生じ、枠を飛び越えていったものがあります。新たに出てきた枠組みもあるとは思います。
個人などはこちらの最たる例かもしれません。
で、こちらが過ちを犯した時、それは先の単一性同様に枠でそれを一手に引き受けることになります。
自由なもとにある中で、中にはよくないものがあります。そうしたもは駆逐されていくことになることがままです。そうした駆逐された枠にいる構成員は個人として社会に放り出されて漂うほかありません。別の枠に上手く漂着し、中に適合すればいいですが、分野によってはそうはいかないものもあるかもしれません。
その個性やオリジナリティーが否定されたとき、人は立っていられるのでしょうか。自由は責任を伴うという言葉が一時期流行りました。確かにある行動をとることの自由は守られてあげられるべきですが、それで損しても責任や償いは自ら行うというのは、行動を萎縮させるに違いありません。
そして、他人の事だからと扱ってみんなでそれを引き受けないこと。
多様性にそうしたところに無責任さがあるのではないかと思います。
無責任なまなざしでこちらを見られた人たちは助けを求めることがあるのだろうか。その責任にかかわりたくないから手を差し出すことはあまりしないでしょう。また損で放り出された人らは互いに足を引っ張り、それに関係ない人たちまでひきづられてしまう連鎖が起きてしまうこと。(実際は関係あるがそれを認識しようとしないから関係ないと思っているだけ。もとは単一のなかにあった人たちにはそれが顕著にあり、緩い結びつきをしりつつ目を背けてきた)
ならば、目を背けることなくその責任と損を引き受ける大きな枠に多様性のある種々の枠を組み込んだり、責任や損に身を投じれる大きな物語や希望といったものが今、必要なのではないかと思います。
閉塞観がある雰囲気はこうした単一性の責任引き受けと多様性多様性であるが所以のリーチを相互に組合すことで龍馬伝で龍馬が「土佐の人、薩摩の人、長州の人ではなく、日本人」にこだわったこと、そして「みなが笑って暮らせる世の中」をもう一度、現在の日本には取り戻すべきではないのかな・・・・なんて思います。



うん、背中がかゆくなる文章だ。おいららしくない。