もの・こと・じょう・ほう

見据えた海は大海原。耳を澄ませば人の声。振り向き様に富士の山。影の先に一輪の花。

ここ最近の授業で思ったこと

この2日授業の中で、「自由」をベースとした脱線話が2つの授業であった。
この2つは歴史学の授業ではあるが、特別難しいわけでもなく、高校日本史を学んでいれば理解できる。
まず1つ目の授業。高杉晋作が身分に関係なく集めた奇兵隊での脱線話。


江戸時代の身分秩序では身分差別・区分で当然とあり、その差別から逃れることはできない。しかし、見方を変えれば、それ以上望まなくてもいいといういわばドロップアウトが容易にできるともいえるのではないかという話がでたのだ。私はいや、ドロップアウトとか楽観的・逃避的すぎるだろ、と思って聞いていた。しかし、その後に、今こうして学力で競争する必要ないんですよねぇ・・・あはは、とかっていうと、一列前で聞いていた見知らぬ受講生が「それっていいよな・・」とかつぶやいていた。
果たしてそうなのか?今はそうした競争が批判されているからそう思うだけで、長い人生のなかで差別を公然とうけつづけるよりもう人生これ以上上がれないというお決まりで競争をさけるのがいいのか。と思った。


2つ目の授業。福沢諭吉
福沢の『学問のススメ』での「天は人の上に人を・・・」を取り上げ、立身出世とかをいっていた。その後は脱亜論とかに続いていた。ここで、この福沢は既に平等社会において競争原理を認めていたのかということを思った。それなら、身分秩序から解放された平等な個人が何でできるできないを分けるか、それが学力ではないのかとふと思った。そして、脱亜論ではその平等な「個人」が「国家」となって競争する構図もありではないのか?だから脱亜論を唱えたのではないかと根拠もなく思ってしまった。



どうなんだろ、身分秩序ありで競争しないか、平等において競争をするのか。前者は敗者の論理、後者は勝者の論理な気がしてならない。かといって第三の論理を思いつくわけでもない・・・